プロフィール

「人生のレールの外側を、自分らしく歩く」

はじめまして、青木いさお です。

趣味は料理と、軽いスポーツ(体がついてこなくなりました…)で、子どもと遊ぶ時間が何よりも幸せな時間です。

突然ですが、

今の自分や現在の働き方に、疑問や不安を感じてはいませんか?

僕は、結婚、子育てを機に、現在の働き方に対する考え方や人生の在り方に疑問を持ちました。

そして将来に不安を感じて“「いま」のために「いま」を生きる”そんな生き方を目指してネットビジネスを始めました。

現在では時間や場所にとらわれず、もちろん会社に所属していないので自由に働きながら、

今必要な分を今稼ぎ、「いつか」のためには知識やスキルを貯めることができています。そんな、自分の理想に近い形で人生を歩み始めることができるようになりました。

自分が抱いた不満や不安を解消するために行動してきた結果、

毎日好きなだけ仕事に没頭して、思いっきり子ども遊んで、毎日をがむしゃらに生きる。

そんな、充実した毎日を送ることが出来るようになりました。

僕の現在の仕事は、自身のメディアを運営しながら、副業時代に3ヶ月で36万円の収入を得ることができたサイトの構築ノウハウなどをコンサルを通して発信しています。

また、メディア運営で培った知識を活かして、ホームページの作成や、経営コンサル

そして最近では、飲食店の開業のお手伝いなんかもしています。

そんな僕もつい最近までは、田舎の中小企業に勤めるごく平均的なサラリーマンでした。

社会では真面目に勤め重宝されることもあった僕ですが、そんな僕がなぜこのようなライフスタイルを求め、今の生き方を手に入れたのか。

「一歩を踏み出せば、人生は変わるかもしれない」

そんな話を、僕のストーリーを交えながら、少しお話させていただきます。

普通ではなかった家庭環境

僕が両親と過ごすことができたのは、保育園の卒園式当日まででした。

卒園式を終えた次の日、僕は知らないおばちゃん2人に腕を引かれ、知らない場所へ連れていかれました。

その場所に着き心配そうな僕に向かってそのおばちゃんは

「今日からここがあなたの家だよ」

と笑顔で言いました。

そこは児童養護施設と言われるところで、事情があって両親と暮らすことができなくなった人が集まるところでした。

「やっぱりそうだったんだ」

僕はそんなふうに思ったのを今でも覚えています。

その児童養護施設に連れてこられたのは僕だけでなく、一つ下と三つ下の弟も一緒でした。

その時僕には2人の妹もいたのですが、その施設では3歳(年少)からしか入所できないところで、仕方なく、離れ離れになってしまったことを後で知りました。

その後、僕が小学3、4年生のころに両親は離婚し、僕たちは母親のほうに引き取られました。

けど引き取られたといっても、生活する場所は施設でしたので、何も変わることはありませんでした。

そのころ、

「早く自立しなくては」

「稼がなければ」

「自分の足でしっかり進んでいかないと」

そんな強い気持ちを抱いたことを今でもしっかり覚えていますし、そのころの自分が今の僕を創っているのも確かだと思います。

ひたすら歩き続けた10代

「中学生になったら一緒に暮らそう」それが母親との約束でした。

その約束通り、小学校を卒業したタイミングで下の子らを残して施設を退所し、母親のもとに帰りました。

僕には2人のお姉ちゃんがいたのですが、施設を退所し家に帰った時には一個上のお姉ちゃんと母親、そして僕の3人での生活でした。

僕は、中学生になったら新聞配達をしながら学校に通い母親を助け、高校へは母親に負担をかけないように特待枠や奨学金制度を利用してタダで行こうと決めていました。

高校を卒業したら優良企業に就職して親を安心させ下の兄弟だちの支えにもなろうと決めていました

中学生になり知った現実

中学生になり、僕は、現実を知りました

13歳では働くことができないこと。そして、勉強をするのにもお金が必要だということ

ですので、結局この家に帰って生きて母親の負担になるだけだった無力な自分に幻滅しながら、

僕はただただ3年間が早く過ぎてしまえと「高校生になればとりあえず働ける」そう思いながら、毎日を過ごしていました。

中学3年生の時には家賃を滞納していたことが分かり、絵に描いたような夜逃げを経験し、しばらく学校に行かない時期もありました。

そんな状況では特待枠や奨学金を借りることなんてできるわけもなく、高校は、家から自転車で通える地元にある工業高校に一般入試で進学しました。

自立を始めた高校時代

高校の入学金は母親の知り合いなどから借りました。

そして、学費も自分で払うという約束での進学だったため、少しでも早くお金が欲しかった僕は中学の先生に紹介してもらい、中学校の卒業式を終えた次の日から新聞配達のアルバイトを始めました

高校に入学してからはスーパーのレジ打ちのアルバイトを掛け持ちするようになり、がむしゃらに稼がなきゃって意気込んでいました。

学業はそこそこに、半年働きづくして、そして、僕は、燃え尽きました

そこで、気持ちだけでは乗越えられない何か、体力的なものもそうですし、精神的なところも含めて、限界があるんだなってことに気づかされました

今となってはいい思い出です…(笑)

とりあえず高校だけは卒業しようと、アルバイト代で学費を払いながら、就職にも困らないようにそこそこの成績を残しながら学生生活を送っていました。

そんな高校2年生の時に母親が突然家に帰ってこなくなりました。

理由は、お姉ちゃんとの口喧嘩から言い合いになり蒸発して出ていったそうです。

けど正直、驚きはありませんでした。母親は昔から「そんな人」でしたから。

普通の生活へのあこがれが捨てられなかった

それからお姉ちゃんと二人暮らしになった僕でしたが、ここで一つの決心をしました。

児童養護施設に戻ろう。

バイト代で学費を払いながら生活費も自分の分は自分で稼ぎ、家に家賃まで入れなくてはいけなくなったので、このままでは高校を卒業しても社会人としてスタートをした時に、

またマイナススタートになってしまう

と思ったからです。

「普通の生活」を夢見てここまでやってきた僕にとって、それだけは絶対に避けたいことでした。

自分の足で児童相談所を尋ね、そこで紹介してらったのは里親さんでした。

その時、その方たちは元里親という立場だったそうですが、僕の話を聞き興味をもってくれたそうで、面談を経て僕はその里親さんの元でめんどうを見てもらうことができました。

人生が変わりだしたと感じた

本当に良くしてくれた里親さんで、初めて誰かに「大事にしてもらった」そんな思いを与えてくれた人たちでした。

僕はこの里親さんのところで僕の願いを伝え、その意志のもとバイトだけでなく勉強もがんばりました。

常に平均的だった僕の成績は学年3位まであがり、バイト代も学費と日々の多少のお小遣いのみにしか使わなくなったので少しずつ貯金をすることができるようになりました。

僕の住んでいた田舎では必須だった車の免許と、車を購入するする費用を用意することができ、本当にホッとしました。

これで、やっと、社会人になれば「普通の生活」が送れるようになると。

生活環境が変わると、ここまで人生が変わるものなんだと実感させられたのもこの時でした。

幸せとは何なのか?

僕は高校を卒業後、地元の中小企業に就職しました。

地元ではそこそこの企業で、インフラ関係の業種で倒産やリストラの心配はなく安定していて、安心して定年まで勤めることができるような会社でした。

やっと社会人になり、誰にも頼らず自分の足で歩き始めた自分にワクワクしていました。

ここでは今でいうブラック社員になってがむしゃらに働きました。

誰よりも早く出勤して、誰より遅くまで働き、仕事が趣味みたいな感じになっていました。

むしろ僕はワーカーホリックなんだと思ったのがこのころです。

取り合えず仕事が楽しかったのを覚えています。認められる喜びというか、成長している自分が楽しかったのを覚えています。

病院からの電話

そんな社会人になって初めての年明けを迎えた新年早々に、忘れていた母親の存在を思い出すことになりました。

地元の市外局番でかかってきた電話は地元で一番大きな病院からで、大事な話があるので今すぐ病院に来てくださいとのことでした。

僕は入社してから初めて定時で帰宅し、病院に向かいました。

正直、ボクにとって母親という存在は男と駆け落ちし子どもを産むだけ産んで施設に預けるような無責任な母親でしかなかったため、病院から電話があっても、無視をしてしまえとも思っていました。

ですが他の兄弟も僕と同じか、それ以上の感情で母親に対して嫌な思いを抱いているだろうと思うと、長男として、母親に対して出来る最初で最後の親孝行かなとも思い病院に向かいました。

正直、母親にとって親戚と呼べるような親戚はいませんでしたので、僕が行くしかないというのもありました。

病院では、未成年だった僕を目の前にいかにも不満そうな担当医が

「他に家族はいらっしゃらないのですか?」

と聞いてきました。

僕は正直に、

「いますが、来ません」

そう答えました。

実際には「そう思っていた」だけでしたが、その言葉に、担当医の先生は何も答えず話を始めました。

「あなたのお母さんは余命3ヶ月になります、治療のすべはありません」

思っていた通りというか「ドラマでよく見るあれや」と、内心笑ってしまうような展開でしたが、それでも、母親という存在は特別で、僕の小さな心はとても締め付けられました。

そういえば、母親は病気だった

母親は僕が中学2年生の時に倒れ救急車で運ばれて入院をした後、退院後は数回通院したものの、治療をサボりました。

体調がよくなったようには見えませんでしたが、病院に行く母親も薬を飲む母親を見ることもありませんでした

僕はずっと母親は治す気がないんだと思ってましたが、一人暮らしをする僕の家に届いた母親からの2通のハガキに同じように書いてあった「お金を貸してください」それが真実だったのでしょう。

愛する男に振り回され、子どもをたくさん産み、病気をしても救い手を差し伸べる人もいなくて、家族からも見捨てられた無残な母親をただただかわいそうに思うことしかできませんでした。

この人にとっての幸せって何だったんだろうと。

母親と過ごす最期の時間

母親は余命3ヶ月を過ぎた4月に、とうとう亡くなりました。

母親の病気は自己免疫性肝炎による肝不全でした。自己免疫性肝炎の発症理由についても因子はまだ明らかになっていませんが、出産も一つの誘因として報告されているそうです。

病院の看護婦さんに促されるままに葬儀屋への段取りや、その後の流れ、支払いなどの説明を受けました。

母親を迎えに来た葬儀屋の車に一緒に乗り、葬儀場で母親との最期の日を過ごし、気づけば、悲しみからなのか悔しさからなのか、よくわからない感情が込み上げ、母親の前で初めて涙を流しました。

母親を失ったストレスは思っていた以上に大きく、それから約1年、僕は途方に迷い続けました。

思い返してみると、その1年間の記憶は思い出せませんでした。

ただ、

人は「何のために生きているのか」

人は「何のために生まれてくるのか」

そんなことが頭ん中をグルグルをめぐりめぐってたことだけは覚えています。

幸せとは「普通」であることなのか?

そんな時、ある女性と出会いました。

先輩の結婚式に出席した時に相手側の友人として参加していた人で、その女性はスラっとした綺麗な人で、ボクが今まで見てきた誰よりも輝き幸せ溢れる笑顔をした人でした。

ボクはこの女性の笑った顔に惹かれ一目惚れをしました

ボクたちは交際一年後に結婚をし翌年には子どもも生まれました。

「みんなと同じ」が幸せだった

当時、入社4年目だった僕はもちろん会社では変わらずブラック社員のように働き、月曜から土曜までは子どもの顔を見ることもないほど働き、

唯一の休みである日曜は一日中子どもと遊ぶ、そんな生活を送るようになりました。

いそがしく大変そうに見えるかもしれませんが、僕は幸せに包まれとても充実している毎日を送っていました。

この時の僕は、「普通の生活」が出来ている気がしていました。

会社では先輩や同僚と仕事の愚痴をこぼしたり、辞めてやる!なんて話を毎日のようにしては、次の日もブラック社員を務め、休日には子どもと遊んだり時には他の家庭と交流をしたりして、

「みんなと同じ」ように生きることができていることに幸せを感じていました

幸せな毎日が違和感に変わる

ですが2年後に2人目が生まれ、僕の幸せは少しずつ変わっていきました

上の子はごはんを食べるようになり、お話もできるようになり、好奇心のまま行動するのでとてもめんどうみがいのある息子だったのですが、

僕が夜の10時に家に帰ると、その息子がおなかをすかしてボクの帰りを待っていたのです。

妻は下の子のめんどうで手いっぱいで、お話ができるようになったことで上の子を放置するようになっていて、3歳になる息子はリビングでひとりYouTubeを見ながら僕の帰りを待つことが多くなりました。

時には疲れてそのままリビングで寝てしまっていたこともありました。

我が家では僕が仕事をお金を稼ぎ、妻が育児や家事をする、そんな一般的な役割分担をしていました。その中で、できる範囲で分担しようという暗黙のルールがありました。それが「普通」だと思っていたのです。

そんな中、下の子のことで手いっぱいだと言って、上の子に対して雑な扱いをする妻に対して、

「母としてなんで普通のことができないんだ」

という不満が強まっていました。

「普通」とはなんなのか

気付けば僕は、自身で愛し選んだ女性を大事に想うことができなくなっていました

そして、僕は、せっかく手に入れた「普通の生活」を守りたいがために、大事なものが見えなくなっていたことに気づきました

そこで僕は改めて、普通の家庭はこうだ、とか、普通ならこうあるべきだなど、「普通」に囚われずに、「今の自分にできることはしっかりやろう」そう思い立ちました。

このままでは、

「僕は今、何のために生きているのか」

分からなくと思ったからです。

そして、このままでは

「僕が今、一番大切なもの」

を守ることができなくなると思ったからです。

自分らしさとは何かを考え出した

僕は少しずつ、自分のワークスタイルを考え直そうと思うようになりました。

まず、仕事をやめることを決めました

根本的に何かを変える必要があると感じていたのと、いくら自分自身で変わろうと思っても会社での自分に対するイメージや役割はなかなか変わるものではないと思ったからです。

結局、上司に猛反対されたり仕事を誰も引き継いでくれなかったりして、会社をやめるのに3ヶ月かかりましたが、

僕はブラックサラリーマンを辞め、8時半から17時までの勤務で残業のない期限付きの公務員の仕事を始めました。

給料は少しだけ減りましたが、なんの不安もためらいもありませんでした。

労働は時間を理想を消費する

その日から僕は、朝一番に起きて洗濯物を干し、みんなの朝ごはんと昼ごはんを用意してから仕事に行き、

仕事が終わったら買い物をして帰ったら夜ごはんを作り洗濯物を片付け、子どもたちをお風呂に入れて寝かしつける。

そして、週末には必ず休みが2日以上あったので、今まで以上に子どもと目一杯遊ぶことができました。

これが僕のライフスタイルになりました。

会社をやめて、僕はとても充実した日々を送ることができていました。

そして下の子が幼稚園に行くことになって、経済的な余裕を求めて僕は副業をはじめました。

せっかくだと思って、副業にはずっと憧れもあった飲食店のアルバイトを選びました。

それから一年週5で夜18時から24時までのアルバイトを続けました。好きな事をやってお金がもらえる、その充実感は貴重な体験でした

諦めかけていた、ずっと昔から夢であった飲食店をやりたいという気持ちも、思い出しつつありました。

ですがそこで僕は一つのことに気づきました

お金を稼ごうとも、

人一人がどんなに労働したところで限界がある

ということに。

そして何よりも、飲食店がどんなに繁盛しても、そこで働くこと人たちが幸せになることはないんだなという事に。

理想を叶えることと、幸せになることは別なんだなと、気づかされました。

理想を叶えるにはお金と時間が必要

また、そのころ上の子は5歳になりますます好奇心が高まっていて、行きたいところややりたいこと、欲しいものなどたくさんのお願いを言ってました

ディズニーに行きたい、USJに行きたい、アメリカにも行ってみたい、イタリアに行ってイタリア語を聞いてみたい、そんな子どもの無限の好奇心に対して、僕は「うん、うん、そうだね!」と必ず笑顔で応えていました。

その中で叶えてあげられる願いは聞いていたんですが、どんなに願っても叶えてあげられないのが「お金」と「時間」が必要となる願いでした。

公務員でしたので給料は安定していますが、給料が急にあがるものではありませんし、今どんなに労働でお金を稼ごうと思ったところで、息子の願いを叶えてあげられるだけのお金を用意するには無理がありました。

しかも何日もかけて旅行するとなると、仕事を休まなくてはいけませんし、その分その月の収入も減るので、それも考えなくてはいけない。

では、諦めるしかないのか?僕は悩みました。

ですが「子どものころに抱いた好奇心は子どものうちに大事にしてあげたい」それが僕の願いであり、親として大事にしていることだったので、諦めたくはありませんでした。

そこで僕は、諦めるくらいならダメもとでも「できる限りのことはやろう」そう思いました。

ビジネスをはじめよう!

僕はビジネスを始める決心をしました

とはいっても実店舗を持つ飲食店や小売店では、必ず多かれ少なかれコストがかかります。ですがそんなお金なんてありません。

ではネットショップを開いて販売すればコストは最小限にできる…

けど商品がもし売れなかった場合には在庫となってしまうリスクは残ります。

家庭や生活を守り維持しながらもできるビジネスはないだろうかと、そこで最初に出会ったのはYouTubeでした

YouTubeって稼げるのかな?

ボク自身はYouTubeを見ることはあまりなかったのですが、子どもが毎日見ているのを見ていました。

その為、どのような動画が再生されているかは何となくわかっていたので、僕でもできるのではないだろうかと思い、そんな軽い気持ちでYouTubeを始めようと思いました。

そこで早速、「YouTubeで稼いでます!」という人をネットで見つけて、その人が提供していた教材を購入し、YouTuberを夢見て作業を始めました。

YouTubeで稼ぐため(マネタイズ)にはYouTubeのライセンスを取得する必要がありました

そして、その教材ではYouTubeのライセンスの取得方法について、グーグルアドセンスのライセンスを取得することをおすすめしていました。

僕はその教材通りにまずはグーグルアドセンスのライセンスを取得するためのブログを開設し、記事を書きだしました。

記事を書くというのは初めてでかなり苦戦をしたのですが、それと同時気づかされました。僕自身、ビジネスに必要なスキルを全く身に着けていなかったことに。

そしてビジネスをしていく上で、ライティングに関するスキルが重要であることに気づかされ、僕は最低限のライティングスキルは身につけなければと、ライティングの勉強も進めながら同時に記事を書いて実践していきました。

早く稼ぎたくても、先が長い…

そんな時、グーグルアドセンスのライセンスを取得するためだけに書いていた僕の記事が、今すぐにでも収入に繋げることができることを知りました

YouTuberになるためには、動画のスキルも身につけなければいけないこともあり、書いた記事がそのまま収入になるのであれば、「その方が楽じゃん!」と思い、

僕はブログを書くことを自分のビジネスにしていくことを決めました。

そこで実際に始めたのがトレンドブログでした。

トレンドブログは

初心者でも始めやすく、個人ビジネスの中でも結果が出やすい

というのが魅力でした。

具体的には、誰でも3ヶ月で10万円稼げますよ!というもの。

そこで、僕は初めてコンサルを受けることにしました。

とても安いものではなかったのですが、何となくこれなら僕にでもできるような気がしましたし、コンサル料以上の結果を必ず出すと心に決め申し込みました。

トレンドブログは稼げる!

コンサルに申し込み、メンターの教えの元で見よう見まねで記事を書きだしました。

その結果、たった3ヶ月で僕は月収36万円という20代でもらえるサラリーマンの給料をはるかに超える金額を稼ぐことができました。

たまたまではなく、その翌月も30万円を超えました。しかも作業時間はサラリーマン時代の1/3で、家でのリモートワークをしながら大きな収入源を得ることができたのです。

もちろん副業だったぶん苦労もありましたし、ときには睡眠時間を削ってブログ更新に打ち込む時期もありました。

しかし、正しい情報さえあれば、あとは行動するだけで誰もがこのような収入源を持つことができることも知りました。

現在では、子どもが幼稚園から帰ってくるまで自宅や近所のカフェで作業して、子どもが帰ってきたら思いっきり遊んで、子どもが寝ればまた理想を叶える為に時間を使う。

そんな風に、自分の時間を自分で自由に選択しながら過ごすことができます

知っているか知らないかの世界

これからは情報社会で、情報を制したものが幸せを掴むことができると言われてますが、まさにその通りだと思いました。

知っているか知らないかで、選択肢が大きく増えるものだと教えられました。

時給も給料のあがらないこの時代に、こんな簡単にこれだけの金額を稼げる世界があったことに驚いたとともに、誰でもできるといえるほどの再現性の高いものでもあります。

このビジネスは、PCがあればどこにいてもいつでも作業(仕事)が出来るため、仕事量も場所も、関わる人もすべて自分の思いのままです

それによって僕のストレス環境が劇的に変わり、子どもと遊ぶことが何よりも幸せな僕にとって、このビジネスとの出会いが僕の人生を変えるキッカケになりました。

レールのない人生

気付けば、僕がこの場所にたどり着くまでに、レールなんてものは一度もなかったんじゃないかと思います。

人生の岐路に立つなんてこともありませんでした。僕は、与えられた条件の中で自分と向き合いながら、前へ前へと進んできました。

そして、この場所にたどり着きました。

ただただ、「普通になりたい」と、「普通」に幸せがあると信じ、その気持ちに囚われ、社会人になり、結婚した時には「普通」になれたと、そう感じました。

しかし、僕が思い描いていた幸せはそこにはありませんでした。何かが違いました。普通の中にも、また、悩みや不満や不安があることを知りました。

そして、「普通」であることは自分らしさを失うことでもあり、

「ここは僕の居場所ではない」

そう感じました。

僕は今、改めてこの場所に立ってみて、自身を持って言えることがあります、

僕の人生にレールなんて必要なかった

と。

もちろん、レールの上を歩く人たちを羨ましく思うこともあります。

僕は日々不安の中を過ごしていました。

そんな中、未来に不安を感じることなく安心してレールの上を歩くことができる、親の敷いたレールの上を親のために歩く、親の思いに応える、そんな人生を送る人たちが、暗闇にいた僕には輝いて見えました。

のびのびと自分の人生を歩いているように見えて「いいな」と思っていました。

僕のいるところとは違う「明るい世界を生きている人たち」そんなイメージでした。

そして、明るい世界を自分らしく生きて幸せを掴んだ人もたくさんいるんです。

しかし、もし、僕があのままレールの上を歩く人生を歩んでいたらと思うとゾッとします。

僕は、レールの上を黙々と歩き、不自然なこともやりたくないこともすべて「当たり前」として受け入れ、そんなことには気づかず、自分らしく生きることを忘れ、人生を終えていたでしょう。

もしもあなたが、何も迷うことなくレールの上を全速力で走ることができているのなら、これからも迷うことなくレールの上をひたすら全速力で走りきりましょう。力の限り。その先にきっと何かが見えてくるはずです

ですが、もしも、レールの上を迷いながら歩いているのであれば、一度そのレールの外に立ってみてください

もし立ち止まっているなら、今すぐに、そのレールの外に立ってみてください

その、たった一歩が、

あなたの人生を変えるきっかけになります

これからはさまざまな生き方、価値観が認められ、その中で個人の価値が求められる時代になっていきます。「自分らしく生きることが許された時代」を僕たちは生きているのです。

「自分の足で、自分らしい人生を笑顔で歩く」

一度きりの人生、自分らしく、カッコよく生きたい、それだけです。

この時代に生まれてきたのですから、せっかく与えられた一度きりの人生、自分らしく生きてみませんか。