はじめまして、青木いさお(@isao_ownlife) です。
僕は田舎で暮らすただの高卒会社員でしたが、ブログで会社員時代の2倍の収入を稼ぎ、現在は個人事業主として2人の子どもを支えています。
そんな僕は、幼少期を児童養護施設で過ごし、様々な家を転々とし、学生時代に住む家が無くなった時もありました。
もちろん、ろくにご飯も食べられるわけもなく、ここは本当に日本なのか?という思うほどの、底辺生活をしていました。
ですが「幸せは皆平等」という言葉を信じ、どんなに苦虫を潰しても笑顔を忘れず懸命に生きてきた結果、ようやく自分らしい生き方を見つけることが出来ました。
そんな僕のストーリーをお話していこうと思います。
自分の人生にあらがいたいい人。今の自分に不満を感じている人。頑張れない自分が嫌になっている人。生きる意味がわからないような人に最後まで読んでもらえればなと思います。
毎日好きなだけ仕事に没頭して、思いっきり好きな人との時間を楽しんで、毎日をがむしゃらに生きる。
そんな人生のキッカケになると思います。普通ではなかった家庭環境
僕が両親と過ごすことができたのは、保育園の卒園式当日まででした。
お友だちやその親と一緒にご飯を食べ、カラオケに行き、卒園を大勢で楽しくお祝いをした次の日、僕は、突然家に訪れた会ったこともないおばちゃんたちに腕を引かれ、車に乗せられました。
そして、知らないおばちゃんたちに連れてこられたのは、見たこともなく全く知らない場所でした。
目的地に着き心配そうな僕に向かってそのおばちゃんは、
「今日からここがあなたの家だよ」
と笑顔で言いました。
これ、普通に怖いですよね…笑
でも僕はその言葉に、
「やっぱりそうだったんだ」
そんな風に思ったのを今でも覚えています。
そこは児童養護施設と呼ばれるところで、親の事情で親と一緒に暮らすことができなくなってしまった子どもが集まる場所でした。
そこに連れてこられたのは僕だけでなく、一つ下と三つ下の弟も一緒でした。
その時僕には2人の妹もいたのですが、まだ幼かった2人妹は別の場所に連れて行かれていたことを後で知りました。
その後、僕が小学3、4年生のころに両親は離婚しました。
原因は分からず終いですが、一緒に暮らしていた頃に毎晩のように喧嘩をしていたので、上手く行ってなかったことだけは間違いありませんでした。
そして両親の離婚を機に改めて、
「早く自立して、早く稼げるようになって、僕が家族を支えないと…!」
そう、長男としてこの家族を僕が守るんだ!と強く胸に抱きました。
ひたすら歩き続けた10代
「中学生になったら一緒に暮らそう」それが母親との約束でした。
その約束通り、小学校を卒業したタイミングで下の子らを残して施設を退所し、母親のもとに帰りました。
僕には2人のお姉ちゃんがいたのですが、施設を退所し家に帰った時には一個上のお姉ちゃんと母親、そして僕の3人での生活でした。
僕は、中学生になったら新聞配達をしながら学校に通い母親を助け、高校へは母親に負担をかけないように特待枠や奨学金制度を利用してタダで行こうと決めていました。
そして、高校を卒業したら優良企業に就職して、僕が父親代わりになって兄弟たちを支えようと決めていました。
中学生になり知った現実
中学生になり、僕は、現実を知りました。
13歳では働くことができないこと。そして、お金がないと生きていけないことを。
結局この家に帰ってきたことで母親の負担になるだけだった無力な自分に幻滅しながら、僕はただただ3年間が早く過ぎてしまえと「高校生になればとりあえず働ける」そう思いながら、毎日を過ごしていました。
しかし、中学3年生の時、家賃を滞納していたことが分かり、絵に描いたような夜逃げを経験し、しばらく学校に行けなくなりました。
そんな状況では特待枠や奨学金を借りることなんてできるわけもなく、僕の中学卒業後の進路は、実費で高校に進学するか就職をするかの二択となりました。
自立を始めた高校時代
中学卒業後の進路は、結局、実費での高校進学を選択しました。
一日でも早く兄弟たちを支えられるようになるためには高卒以上の学歴は必須だと思っていましたし、高校の入学金は母親の知り合いから借りることができ何とかなったので、これはチャンスだと思いました。
そして僕は、中学の卒業式の次の日から新聞配達を始め、スーパーのレジ打ちのアルバイトの掛け持ちで必死に働きお金を稼ぎました。
学業はそこそこに、半年働きづくして、入学金の20万円を返済したころ、僕は、燃え尽きました。
そこで、気持ちだけでは乗越えられない何か、体力的なものもそうですし、精神的なところも含めて、限界があるんだなってことに気づかされました。
とりあえず高校だけは卒業しようと、アルバイト代で学費を払いながら、就職に困らないようにそこそこの成績を残しながら学生生活を送っていました。
そんな高校2年生の時に母親が突然家に帰ってこなくなりました。
父親へのあこがれが捨てられなかった
それからお姉ちゃんと二人暮らしになった僕でしたが、ここで一つの決心をしました。
「児童養護施設に戻ろう」
と。
バイト代で学費を払いながら生活費も自分の分は自分で稼ぎ、毎月3万円家に入れないといけない。
こんなその場暮らしの中で就職をしても、車の免許もなく免許をとっても車を買うお金もない。
これでは、社会人になったとして父親として兄弟を支えることは出来ないとと思ったからです。
家族のためだけを思ってここまでやってきた僕にとって、それだけは絶対に避けたいことでした。
そして自転車をこぎ児童相談所を尋ね、そこで紹介してらったのは児童養護施設ではなく、里親さんでした。
僕の話を聞き興味を持ってくれた里親さんの好意で、面談を経てその里親さんの元でめんどうを見てもらうことができました。
生活環境の大事さを実感
本当に良くしてくれた里親さんで、初めて誰かに「大事にしてもらった」そんな思いを与えてくれた人たちでした。
里親さんには僕の願いを伝え、その意志のもとバイトだけでなく勉強も頑張りました。
常に平均的だった成績は学年3位まであがり、バイト代も学費と日々の多少のお小遣いのみにしか使わなくなったので少しずつ貯金をすることもできるようになりました。
僕の住んでいた田舎では必須だった車の免許と、車を購入するする費用を用意することができ、本当にホッとしました。
これでやっと、僕が皆の父親代わりになれると。
生活環境が変わると、ここまで人生が変わるものなんだと実感させられたのもこの時でした。
幸せとは何なのか?
高校を卒業後、地元の中小企業に就職しました。
地元ではそこそこの企業で、インフラ関係の業種で倒産やリストラの心配はなく安定していて、安心して定年まで勤めることができるような会社でした。
やっと社会人になり、誰にも頼らず自分の足で歩き始めた自分にワクワクしていました。
ここでは今でいうブラック社員になってがむしゃらに働きました。
一日でも早く結果を出して先輩や上司に認められ、一日でも早くこの会社で出世するんだ!と。
誰よりも早く出勤して、誰より遅くまで働き、仕事が趣味みたいな感じになっていました。
とりあえずもう仕事が楽しかったのを覚えています。
認められる喜びというか、成長している自分が楽しかったのを覚えています。
そして僕が、まだ児童養護施設にいる兄弟たちの父親として、もうすぐ兄弟たちを迎えにいけるようになるということが嬉しかったのもあるかも知れません。
突然の病院からの電話
そんな社会人になって初めての年明けを迎えた新年早々に、忘れていた母親の存在を思い出すことになりました。
地元の市外局番でかかってきた電話は地元で一番大きな病院からで、大事な話があるので今すぐ病院に来てくださいとのことでした。
母親は、僕が中学生の時から病気を患っていました。
きっとこの電話は、そういうことなんだろうと察しました。
僕は入社してから初めて定時で帰宅し、病院に向かいました。
正直その頃の僕にとって、母親という存在はあってないようなもので、病院から電話があっても無視をしてしまえとも思ったくらいでした。
ですが他の兄弟も僕と同じか、それ以上の感情で母親に対して嫌な思いを抱いているだろうと思うと、長男として、母親に対して出来る最初で最後の親孝行かなとも思い病院に向かいました。
母親にとって親戚と呼べるような親戚もいませんでしたので、僕が行くしかないというのもありました。
そして病院に着き、未成年だと知った僕を目の前にいかにも不満そうな担当医が、
「他に家族はいらっしゃらないのですか?」
と聞いてきました。
僕は、
「いますが、来ません」
そう答えました。
これは、兄弟たちの為に僕が出来る父親としての最初の役目だと、そう思っていました。
それから、担当医は、
「あなたのお母さんは余命3ヶ月になります、治療のすべはありません」
そう続けました。
思っていた通りで「ドラマでよく見るあれや」と内心笑ってしまうような展開で、それでも、母親という存在は特別で、僕の小さな心はとても締め付けられました。
母親によっての幸せってなんだったんだろう
母親は僕が中学2年生の時に救急車で運ばれ入院をした後、治療をサボりました。
体調が良くなったようには見えませんでしたが、病院に行く母親も薬を飲む母親を見ることもありませんでした。
僕はずっと母親は治す気がないんだと思ってましたが、就職後に一人暮らしをする僕の家に届いた母親からの2通のハガキに同じように書いてあった
「お金を貸してください」
それが、治療ができなかった理由だったんだと思います。
愛する男に振り回され、子どもをたくさん産み、病気をしても救い手を差し伸べる人もいなくて、家族からも見捨てられた無残な母親をただただかわいそうに思うことしかできませんでした。
この人にとっての幸せって何だったんだろうと。
母親と過ごす最期の時間
ほぼ主治医の予言通り、余命3ヶ月を数日過ぎた4月半ばに母親は他界しました。
母親の病気は自己免疫性肝炎による肝不全でした。自己免疫性肝炎の発症理由についても因子はまだ明らかになっていませんが、出産も一つの誘因として報告されているそうです。
病院の看護婦さんに促されるままに葬儀屋への段取りや、その後の流れ、支払いなどの説明を受けました。
母親を迎えに来た葬儀屋の車に一緒に乗り、葬儀場で母親との最期の日を過ごし、気づけば、悲しみからなのか悔しさからなのか、よくわからない感情が込み上げ、母親の前で初めて涙を流しました。
母親を失ったストレスは思っていた以上に大きく、それから約1年、僕は途方に迷い続けました。
正直、死をも考えたこともありました。
その頃の記憶は今でも思いだせません。
ただ、
人は何のために生きているのか
人は何のために生まれてくるのか
そんなことを、頭ん中でグルグルと考え続けていたことだけは覚えています。
幸せとは「普通」であることなのか?
そんな時、ある女性と出会いました。
先輩の結婚式に出席した時に相手側の友人として参加していた人で、その女性はスラっとした綺麗な人で、今まで見てきた誰よりも輝き幸せ溢れる笑顔をした人でした。
僕は、この女性の笑った顔に惹かれ一目惚れをしました。
そして僕たちは交際一年目の記念日に入籍をして、翌年には子どもも生まれました。
「みんなと同じ」が幸せだった
当時、入社4年目だった僕は相変わらずブラック社員のように働き、唯一の休みである日曜は一日中子どもと遊ぶ、そんな生活を送るようになりました。
いそがしく大変そうに見えるかもしれませんが、僕は幸せに包まれとても充実している毎日を送っていました。
僕はこの時はじめて、「普通の生活」が出来ている気がしていました。
会社では先輩や同僚と仕事の愚痴をこぼしたり、辞めてやる!なんて話を毎日のようにしては、次の日もブラック社員を務める。
そして休日には、子どもと遊んだり時には他の家庭と交流をしたりして、「みんなと同じ」ように生きることができていることに幸せを感じていました。
幸せな毎日が違和感に変わる
ですが2年後に2人目が生まれ、僕の幸せは少しずつ変わっていきました。
夜の10時過ぎ、いつも通りの時間に帰宅すると、3歳になった息子がおなかをすかして僕の帰りを待っていたのです。
妻は下の子のめんどうで手いっぱいで、上の子を放置するようになっていて、3歳になる息子はリビングでひとりYouTubeを見ながら僕の帰りを待つことが多くなりました。
時には待ち疲れて、リビングでタブレットを開いたまま寝てしまっていたこともありました。
我が家では、夫がお金を稼ぎ、妻が育児や家事をする、そんな一般的な役割分担をしていました。
その中で、できる範囲で分担しようという暗黙のルールがありました。
それが「普通」だと思っていました。
そんな中、下の子のことで手いっぱいだと言って、上の子に対して雑な扱いをする妻に対して、
「母としてなんで普通のことが出来ないんだ…!!」
という不満が強まっていました。
「普通」とはなんなのか
気付けば、自身で愛し選んだ女性を大事に想うことができなくなっていました。
そして、せっかく手に入れた「普通の生活」を守りたいがために、大事なものが見えなくなっていたことに気づきました。
そこで改めて、普通の家庭はこうだ、とか、普通ならこうあるべきだなど、「普通」に囚われずに、「今の自分にできることはしっかりやろう」そう思い立ちました。
このままでは、
「僕は今、何のために生きているのか」
分からなくと思ったからです。
そして、このままでは
「僕が今、一番大切なもの」
を守ることができなくなると思ったからです。
自分らしさとは何かを考え出した
僕は少しずつ、自分のワークスタイルを考え直そうと思うようになりました。
まず、仕事をやめることを決めました。
根本的に何かを変える必要があると感じていたのと、いくら自分自身で変わろうと思っても会社での自分に対するイメージや役割はなかなか変わるものではないと思ったからです。
上司の反対などがありすんなりとやめることは出来ませんでしたが、僕はブラックサラリーマンを辞め、8時半から17時までの勤務で残業のない公務員の仕事を始めました。
給料は少しだけ減りましたが、なんの不安もためらいもありませんでした。
労働は時間を理想を消費する
その日から、朝一番に起きて洗濯物を干し、みんなの朝ごはんと昼ごはんを用意してから仕事に行き、仕事が終わったら買い物をして帰ったら夜ごはんを作り洗濯物を片付け、子どもたちをお風呂に入れて寝かしつける。
そして、週末には必ず休みが2日以上あったので、今まで以上に子どもと目一杯遊ぶことができるという暮らしを手に入れました。
これが僕の新しいライフスタイルになりました。
会社をやめて、僕はとても充実した日々を送ることができていました。
それから下の子が幼稚園に行くことになって、経済的な余裕を求めて僕は副業をはじめました。
せっかくだと思って、副業にはずっと憧れもあった飲食店のアルバイトを選びました。
それから一年週5で夜18時から24時までのアルバイトを続けました。好きな事をやってお金がもらえる、その充実感は貴重な体験でした。
諦めかけていた、ずっと昔から夢であった飲食店をやりたいという気持ちも、思いだしつつありました。
ですがそこで僕は一つのことに気づきました。
お金を稼ごうとも、
人一人がどんなに労働したところで限界がある
ということに。
無理をすれば、高校生の時のように燃え尽き症候群になる。
そして何よりも、時給で働いていては幸せになることはないんだなという事に。
理想を叶えることと、幸せになることは別なんだなと、気づかされました。
理想を叶えるにはお金と時間が必要
また、そのころ上の子は5歳になりますます好奇心が高まっていて、行きたいところややりたいこと、欲しいものなどたくさんのお願いを言ってました。
ディズニーに行きたい、USJに行きたい、アメリカにも行ってみたい、イタリアに行ってイタリア語を聞いてみたい、そんな子どもの無限の好奇心に対して、僕は「うん、うん、そうだね!」と必ず笑顔で応えていました。
その中で叶えてあげられる願いは聞いていたんですが、どんなに願っても叶えてあげられないのが「お金」と「時間」が必要となる願いでした。
公務員でしたので給料は安定していますが、給料が急にあがるものではありませんし、今どんなに労働でお金を稼ごうと思ったところで、息子の願いを叶えてあげられるだけのお金を用意するには無理がありました。
しかも何日もかけて旅行するとなると、仕事を休まなくてはいけませんし、その分その月の収入も減るので、それも考えなくてはいけない。
では、諦めるしかないのか?僕は悩みました。
ですが「子どものころに抱いた好奇心は子どものうちに大事にしてあげたい」それが僕の願いであり、親として大事にしていることだったので、諦めたくはありませんでした。
兄弟たちには思うように父親としての役割を果たすことは出来ませんでしたが、我が子には必ず結果で応えたい。
そこで、諦めるくらいならダメもとでも「できる限りのことはやろう」そう思いました。
ビジネスをはじめよう!
僕はビジネスを始める決心をしました。
とはいっても実店舗を持つ飲食店や小売店では、必ず多かれ少なかれコストがかかります。ですがそんなお金なんてありません。
ではネットショップを開いて販売すればコストは最小限にできる…
けど商品がもし売れなかった場合には在庫となってしまうリスクは残ります。
家庭や生活を守り維持しながらもできるビジネスはないだろうかと、そこで最初に出会ったのはYouTubeでした。
YouTubeって稼げるのかな?
僕自身はYouTubeを見ることはあまりなかったのですが、なんとなく、でもできるのではないだろうかと思い、そんな軽い気持ちでYouTubeを始めようと思いました。
そこで早速、「YouTubeで稼いでます!」という人をネットで見つけて、その人が提供していた教材を購入し、YouTuberを夢見て作業を始めました。
YouTubeで稼ぐため(マネタイズ)にはYouTubeのライセンスを取得する必要がありました。
そして、その教材ではYouTubeのライセンスの取得方法について、Googleアドセンスのライセンスを取得することをおすすめしていました。
僕はその教材通りにまずはGoogleアドセンスのライセンスを取得するためのブログを開設し、記事を書きだしました。
記事を書くというのは初めてでかなり苦戦をしたのですが、それと同時気づかされました。僕自身、ビジネスに必要なスキルを全く身に着けていなかったことに。
そしてビジネスをしていく上で、ライティングに関するスキルが重要であることに気づかされ、僕は最低限のライティングスキルは身につけなければと、ライティングの勉強も進めながら同時に記事を書いて実践していきました。
早く稼ぎたくても、先が長い…
そんな時、Googleアドセンスのライセンスを取得するためだけに書いていた僕の記事が、今すぐにでも収入に繋げることができることを知りました。
YouTuberになるためには、動画のスキルも身につけなければいけないこともあり、書いた記事がそのまま収入になるのであれば、「その方が楽じゃん!」と思い、
僕はブログを書くことを自分のビジネスにしていくことを決めました。
そこで実際に始めたのがトレンドに特化した雑記ブログでした。
雑記ブログは、
初心者でも始めやすく、個人ビジネスの中でも結果が出やすい
というのが魅力でした。
具体的には、誰でも3ヶ月で10万円稼げますよ!というもの。
(これ今ではめっちゃ胡散臭いですが、当時はホントこんな感じでした笑)
そこで、僕は初めてコンサルを受けることにしました。
とても安いものではなかったのですが、何となくこれなら僕にでもできるような気がしましたし、コンサル料以上の結果を必ず出すと心に決め申し込みました。
雑記ブログは稼げる!
コンサルに申し込み、メンターの教えの元で見よう見まねで記事を書きだしました。
育児に家事に仕事にと、なかなかブログを書く時間は取れませんでしたが、自分の時間は全てブログにフルコミット。
1記事書くのに3時間かかったり、、書いた記事に全くアクセスが来なかったり、、、
それでも諦めずひたすらに記事を書き続けた結果、ブログ開始3ヶ月目に月収36万円という20代でもらえるサラリーマンの給料をはるかに超える金額を稼ぐことができました。
たまたまではなく、その翌月も30万円を超えました。しかも作業時間はサラリーマン時代の1/3で、家でのリモートワークをしながら大きな収入源を得ることができたのです。
もちろん副業だったぶん苦労もありましたし、ときには睡眠時間を削ってブログ更新に打ち込む時期もありました。
しかし、正しい情報さえあれば、あとは行動するだけで誰もがこのような収入源を持つことができることも知りました。
現在では、子どもが幼稚園から帰ってくるまで自宅や近所のカフェで作業して、子どもが帰ってきたら思いっきり遊んで、子どもが寝ればまた理想を叶える為に時間を使う。
そんな風に、自分の時間を自分で自由に選択しながら過ごすことができます。
知っているか知らないかの世界
これからは情報社会で、情報を制したものが幸せを掴むことができると言われてますが、まさにその通りだと思いました。
知っているか知らないかで、選択肢が大きく増えるものだと教えられました。
時給も給料のあがらないこの時代に、こんな簡単にこれだけの金額を稼げる世界があったことに驚いたとともに、誰でもできるといえるほどの再現性の高いものでもあります。
このビジネスは、パソコンがあればどこにいてもいつでも作業(仕事)が出来るため、仕事量も場所も、関わる人もすべて自分の思いのままです。
それによって僕のストレス環境が劇的に変わり、子どもと遊ぶことが何よりも幸せな僕にとって、このビジネスとの出会いが僕の人生を変えるキッカケになりました。
ブログで稼げるようになり、起業をした現在では、
・ブログコンサルタント
・飲食店やサロンのHP制作
・法人企業のLINE公式アカウントの運用
・1500万円規模のクラウドファンディングを企画
など、パソコン一つで様々な収益源を作ることが出来ています。
実績もスキルもない状態から、たった1、2年でこれほどの選択肢を持つことが出来たのは、それがネットを使ったビジネスだったからです。
このような働き方を知ることが出来たのが幸運だったと思っています。
レールのない人生
気付けば、僕がこの場所にたどり着くまでに、レールなんてものは一度もなかったんじゃないかと思います。
人生の岐路に立つなんてこともありませんでした。僕は、与えられた条件の中で、自分と向き合いながら、前へ前へと進んできました。
そして、この場所にたどり着きました。
ただただ、「普通になりたい」と、「普通」に幸せがあると信じ、その気持ちに囚われ、社会人になり、結婚した時には「普通」になれたと、そう感じました。
しかし、僕が思い描いていた幸せはそこにはありませんでした。何かが違いました。普通の中にも、また、悩みや不満や不安があることを知りました。
そして、「普通」であることは自分らしさを失うことでもあり、
「ここは自分の居場所ではない」
そう感じました。
僕は今、改めてこの場所に立ってみて、自信を持って言えることがあります、
レールの上になんて自分らしい人生はなかった
と。
もちろん、レールの上を歩く人たちを羨ましく思うこともあります。
僕は日々不安の中を過ごしていました。
そんな中、未来に不安を感じることなく安心してレールの上を歩くことができる、親の敷いたレールの上を親のために歩く、親の思いに応える、そんな人生を送る人たちが、暗闇にいた僕には輝いて見えました。
のびのびと自分の人生を歩いているように見えて「いいな」と思っていました。
僕のいるところとは違う「明るい世界を生きている人たち」そんなイメージでした。
そして、明るい世界を自分らしく生きて幸せを掴んだ人もたくさんいるんです。
しかし、もし、僕があのままレールの上を歩く人生を歩んでいたらと思うとゾッとします。
僕は、レールの上を黙々と歩き、不自然なこともやりたくないこともすべて「当たり前」として受け入れ、そんなことには気づかず、自分らしく生きることを忘れ、人生を終えていたでしょう。
もしもあなたが、何も迷うことなくレールの上を全速力で走ることができているのなら、これからも迷うことなくレールの上をひたすら全速力で走りきりましょう。力の限り。その先にきっと何かが見えてくるはずです。
ですが、もしもレールの上を迷いながら歩いているのであれば、そのレールの外側に降りてみて下さい。。
そして、レールの外側から自分のことを見てみて下さい。
あなたは笑っていますか?
その、たった一歩が、あなたの人生を変えるきっかけになります。
これからはさまざまな生き方、価値観が認められ、その中で個人の価値が求められる時代になっていきます。
「自分らしく生きることが許された時代」を僕たちは生きているのです。
「自分の足で、自分らしい人生を”笑顔”で歩く」
一度きりの人生、自分らしく、カッコよく生きたい、それだけです。
おわりに
ずっと一人で自分の人生に抗ってきた僕も、最近では仲間が増えてきて、「良くやってるよね」「いいパパや…」「尊敬します!」なんてことまで…
そんなふうに僕のことを認めてくれる人が増えてきました。
本当に有り難い限りだし、命がけで僕を生んでくれた母親には本当に、本当に感謝しかありません。
でも実際には、自分のことでいっぱいいっぱいで、自分勝手な人生をこれまで生きてきたなと反省してもいます。
ただ僕はやっぱり、自分のやりたいことを最優先にしたい。
自分のやりたいことを優先した結果、その過程で周りの人も幸せにしてた。
っていうのが理想だなって綺麗ごとを本気で考えています。
でも実際に、そんな世の中だったら素敵じゃないですか?
なのでこれからも、自分のやりたいことや理想を叶えつつ、家族も変わりの人も守っていく。
そんな損な生き方をしていきたいと思っています。
この時代に生まれ、自分らしい生き方を否定されることも多いかと思います。
今もそんな中で苦しんでいる人も多いと思います。
そんな人に、この記事を通して、どんな環境に生まれようがそれだけ逆風が吹こうが、自分の人生は取り戻せる。
そう信じることができるキッカケになれば良いなと思います。
僕もまだまだ頑張ります。だから、一緒に頑張りましょう。